しかし、世の中は自分の思い通りには動いてくれない。大学になって、睡眠時間が自由になって、日本のおたく友達との交流が増えて、宿題も無いのに夜更かししたり睡眠時間がずれてしまうことが多くなっていく。そして、一度ずれたら戻すのはなかなか難しいものだ。昔は若いせいかそれでもなんとか容易くできたものの、日が経つに連れ、習慣は変えられにくいものなのだ。しかし、どれだけスケジュールが自由でも、社会生活をしている限り、生活リズムはある程度合わせなくてはならない。昼飯過ぎて起きるというのはもうなかなかやばい状況なのだ。どうして生活自体がずれてしまうのか。いくら早く起きようがそうでないようが。一番に思い出したのはやはり電子機器だった。最初は本の重さを減らすために購入したものだ。昔はいつも必要そうな本を全部持って歩いてたから、旅行の日にはトランクに本を入れていたものだ。当然すごい重い。タブレットを買ってから、本を持ち歩く必要もなくなったし、ノートも必要なくなった。最初はすっごい活用していたものだ。それから、どんどんパソコンの昨日が携帯タブレットへと移っていた。夜はいつも火を消した後もそれで遊んでいたから目も一段と悪くなる。統計によるとほとんどの人がそうだという。いろんな世界の不正義を見て怒ったり、対策を考えたり、雑な記事を読んだり、趣味のこと調べたり、そっちの趣味のことも調べたり・・・。人の人生って面白いなあって。
昔はどれだけ怠けても頑張ると思えばその時だけは頑張れたのに、今だけはそれもできない状態である。なんでだろう。昔みたいに人が怖いわけでもない。教授に怒られた時も淡々といられた。ではなんで家から一歩も出れないのだろうか。やはり教授が怖いのか?しかし、今は急ぐ時なのだ。休みに遊んだ分教授の点を取るべきだと、先輩は言った。何日か期間はあったのにもう1日しか残っていない。その間何もやっていない。それはなんでだろうと思った。そしてやっと「なにで」暇つぶしをしているかに気が付いた。俺は安住したいんだ。結局自分は人の話を聞いていた。悩みとか、幸せとか、悲しみとか、あきれるくらいのストーリも聞いて。喜怒哀楽しながら。それでもどこかではその人たちを羨ましがっているのだ。そんな気がした。これまで私は人と絆を結びたくなかった。いつも向こうから寄ってくるのを期待していた。高校生まではそれでも問題はない。とにかく一緒の空間に閉じ込められ、それも一緒の長年を生きてきたという同質感があるから。しかもこちらでは留年とか無いからなおさら。同じ学年で歳が違うというと想像できるのは法的な問題(知能の問題、移民とか)とか、相当な不良で退学になったことくらいだ。だから、大学からは孤立しやすいものだ。まぁむしろ同じ学問をやってる仲だし、当時の自分としてはむしろ同質感を得られたのかもしれない。しかし積極的になれない人はいつまでも恵まれたりはしないもの。しかし積極的に偽るとそれもまた大きな副作用をもたらす。だから性のまま生きることにしていた。
自信ってなんだろう。なんで俺は言い訳もろくにできないまま悔しがりながらも、また現状を維持しているのだろう。やはり隣に誰かいたほうが良かったかもしれない。いや、むしろ結果とか考えずに人にぶつかったほうが、何もしないより絆が生まれる。僕は今まで「人に見られるのは結果のみ」と考え人を恐れ、過ちをし、また誤解を生むという最悪のサイクルに陥っていた。そして、それはすべて「こだわり」から生まれたもの。ほかは知らなくても自分が望んだそれだけは絶対、というこだわりが、私の人生にはずっとしみついていた。そしてそれは学問を追及することに向いていると思っていた。しかし、今こそ結論付ける。世の中のすべてのこだわりは間違っていると。東洋ではなぜか職人気質をよく見せる教育をしてきた。そしてそれはもちろん産業社会において生産性を増加させる方向へ働く。しかし、ソサイアティーに入り、生産性を一番左右する人間関係において、どのようなこだわりも役には立たなかった。こだわりは硬直した動きしか生まない。むしろすべてを捨て、職に対するこだわりさえも捨てることで、重圧を乗り越え前に進めるのだ。
だから勇気を出し、好きで好きでたまらなくて、しかし好きになってはいけない人に、好き勝手にふるまってみる。すべての欲を捨て、軽い気持ちになれるようにする。何も考えずに行動しよう。
p.s. 言い訳って思ってる時点で自信ないかもねw本当に何もしてないってありえないし
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